ありの「スポーツどうなん」 第66回 「スポーツのその先にあるもの」
北九州市障害者スポーツセンター
アレアス 所 長 有延 忠剛
東京オリパラを契機に、何かにつけ「共生社会の実現」というフレーズが様々な場面で「決まり文句」のように使われているが、実はこの言葉に出会うたびに、「いやいや、ちょっと待って」と心で呟いている自分がいる。
確かに、「共生」を目指す中で、障害あるいは他者への理解は当然必要であり、そこが入口であることは間違いない。ただ、そこまでは良いが、そこまででしかない。大抵の取り組みはそこで終わりなのである。
「共生社会の実現・・・」。言葉としてとても素敵な響きを持ち、それは私たち人類が目指すべきものであるはず。だがそれは、決してそんな簡単なことではないし、そんな綺麗ごとで済む話ではない。なぜなら、多くの人間は、私も含めてそもそも「自己中心的」であり、「自分勝手」なのである。なので私は「実現」という表現は使わず、せめて「推進」という言葉を使うようにしている。
先日、小学生ふうせんバレーボール大会が、2年ぶりに開催された。1年生から6年生までの子どもたちが、コート狭しとふうせんを追って駆け回り、懸命にプレーする姿に、今年も大きな感動をもらった。
実はこのふうせんバレーボールというスポーツ、殊に「小学生大会」に、「共生社会の推進」へのヒントがあるのだ。
上級生と下級生が一つのチームを組む小学生大会において「みんなで仲良く協力してプレーしましょう」という綺麗ごとを言っても、勝敗がかかると、どうしても下級生や他者の思うようにいかないプレーに苛立ちを感じるようになる。人間が自己中心的であることを考えれば至極当然なことである。だが、ふうせんバレーというスポーツは、そこが前提となっているのである。「呉越同舟」というと語弊があるが、ちがいを前提とした運命共同体を構築することが起点となっているのだ。
我欲が絡んだ時にこそ、どれだけ周りに対して思いやりある行動が取れるか、自分と他者、そして集団の利益をいかに追求するか。このことが共生社会推進のメカニズムなのではないだろうか。