ありのスポーツどうなん?
第60回 「二つの必然」その2
北九州市障害者スポーツセンターアレアス
所 長 有延 忠剛
ふうせんバレーが、「共生のスポーツ」とされるもう一つの必然。それは、ふうせんバレーを考案した中心人物、荒川孝一氏の半生そのものに大きく関係している。
彼は健常児として生を受け、小学校では地元の野球チームに所属したスポーツ好きの活発な野球少年だった。
しかし、小学5年生の時に、医師から筋力が次第に奪われていく難病「筋ジストロフィー症」を宣告される。
その後、医師の宣告どおり、野球のバットを振ることが困難に、中学ではテニス部、さらにその後卓球部へ転向。高校入学時には、スポーツをあきらめ、ギターを抱え音楽活動に専念する。そして高校3年の終わり、遂に
車いすの生活となった彼は、地元の公立大学を受験し見事合格するが、当時はまだ車いすで大学生活を過ごせる時代ではなかった。多感な少年期、思春期、青年期に次々と夢を奪われてしまった彼は、大学合格を機に今で言う「引きこもり」となり、人生を悲観し社会との関係を閉ざしてしまうのである。
それから約5年の年月が流れ、友人の就職や結婚などの報告に刺激を受けた彼は、社会との関わりを求めていくように少し
ずつ変化する。
そんな中で、彼はその後の人生をさらに左右する出来事に遭遇する。養護学校を訪問し「夢」を生徒に尋ねた際、障害があることで夢を描くことさえできない生徒の現実を彼は知ったのだ。
「奪われたものの、まだ自分は夢を描くことができた」
彼はその時、障害の有無で全て分け隔てられてしまう社会ではなく、障害のある人々を「包み込み、ともに生きる」社会の必要性を強く感じたのだった。
彼のこの苦悩の半生が、後のふうせんバレーの誕生に大きく関わっていったのである。