「もうひとつのWBCもうひとりのショーヘイ」
北九州フューチャーズ 監督 有延 忠剛
今年3月、侍JAPANがWBC(「ワールド・ベースボール・クラシック」)を制した。決勝のアメリカ戦でピッチャー大谷翔平が、最後の打者を三振に打ち取ったまさにその瞬間、日本中が歓喜に沸いた。マウンド上で興奮のあまり帽子とグローブを投げ捨てた姿は、今も脳裏に焼き付いている。
『もうひとつのWBC』
実は、今年9月、名古屋市(バンテリンドームナゴヤ)にて、「第5回世界身体障害者野球大会」が開催された。
本物のWBCに比べ、知名度には雲泥の差があったが、その大会は「もう一つのWBC」と呼ばれ、日本代表チームの中にも「ショーヘイ」選手がいた。身体障害者野球チーム「北九州フューチャーズ」の竹下祥平選手である。
『もうひとりのショーヘイ』
ショーヘイとの出会いは12年前に遡る。私が高校時代に在籍していた野球部の一学年後輩が、当時、福祉系専門学校の教員をしていた。その後輩から電話があり、「うちの学生で、先輩のチーム(フューチャーズ)に入れて欲しい選手がいます」とのことだった。当然のごとく2つ返事で回答したが、後輩はこう続けた。「ただ先輩、一つお断りしておきます。その学生は、ものすごくヤンチャです!言うことを聞かないかもしれません!」とのことだった。逆にワクワクしてきたことを今でも覚えている。
『笑顔のかわいい19歳だった』
ショーヘイが障害を負った原因はバイク事故だった。兄が運転するバイクの後ろに乗っている時の事故で、左足の機能を失った。兄は、亡くなった。
後輩は、失意のどん底にあったショーヘイの前途に「何か光明を!」との思いでチームを紹介してくれた。そして、ショーヘイはグラウンドに現れた。「すごい奴が入ってくるらしいぞ!」と選手たちと構えていた中、確かにメガネは傾いていたが(笑)、笑顔のかわいい19歳だった。それから、12年の歳月が流れた。仕事もいくつか変わ
ったが、今は放課後デイサービスを運営する管理責任者として頑張っている。
日本が歓喜に沸いたあの3月から半年後、もう一つのWBCが日本で開催され、そのラストゲームの歓喜の輪の中にもショーヘイがいた。2人のショーヘイの生きる世界は大きく違えども、スポーツが彼らの人生をはっきりと彩っていることに変わりはない。
2人のショーヘイに、これからも目が離せない。
北九州フューチャーズ
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