第55回「共生」を目指す中で思う
北九州市障害者スポーツセンター
アレアス 所長 有延 忠剛
前々回の原稿で「共生社会の実現」について触れたばかり。今回もまたぶり返すかのように「共生」についてめぐる思いを綴りたいと思う。
と言うのも、北九州市障害者スポーツセンターの業務の中で日々考え、東京オリンピック・パラリンピック関係事業に触れる中で考え、ふうせんバレーボールに携わる中で考え、という具合に、まさに、共生への夢と希望を抱き、悩み、時に心が折れ、時に心踊るという、私自身、毎日がその繰り返しの状態なのである。
少し前に書き留めたことがある。
「『共生』というのは、当然ながら、障がいの有無だけではなく、行き着くところ、自分以外の人とどのようにかかわろうとすることができるかによる。①どれだけ知る(知ろうとする)ことができるか。②どれだけ理解する(しようとする)ことができるか。③どれだけ尊重する(しようとする)ことができるか。④どれだけ協同する(しようとする)ことができるか。」
しかし、このメモとはまた異なる内容のメモを後日書き留めている。
「夢物語のような共生社会が実現できるわけではない。すべての人には、歴然とした『ちがい』が存在する。価値観も、目指す方向も、やり方も異なる。しかし、だからこそ『共生』の概念が重要。そして少なくとも『生命』や『生きる権利』は誰であろうと侵されてはならない。」
皆は思うだろう。「誰だってわかってるよ。そんなこと。」
そこで思うのだ・・・。
「『わかる』ことと『できる』ことが最も埋めなければならない『ちがい』なのかもしれない」と。